諸富賢一の2文字宣言ストーリー

はじめまして!
「真面目で、いい人がにじみ出ている(笑)」 と言われる、こまかなところまで気づかいする 工務店の諸富賢一(もろどみけんいち)です。

「みんなが集まるような家になって、うれしい!」 と家族が“笑顔”になることが、わたしのよろこび です。そのために、「いろんなことを頼みやすい」 と言われるように、心がけていきます。

諸富賢一肖像

諸富さん使命

「ちょっと、ついて来い」

父は、4人姉弟の末っ子。しかもただ一人の男の子。叔母さんに言わせると、「甘やかされたから、わがままなのよ(笑)」と。祖母が40代の時の子供なので、格別可愛いがったようです。

父は、工務店の仕事をしながら、兼業で農家もしていました。平日は、現場、土日は、田んぼ。休みなく働いていました。

父は、どちらかというと、すべて自分中心。家に居るときも、父は、一人でいる時間が好きでした。テレビ見たり、晩酌したり。口数が少なく、自分から話すタイプではありません。

そのため、小さい頃、父とは一緒に遊んだ記憶が、ほとんどありません。小学校3・4年生の頃は、「背中乗ってくれ」、「肩たたいてくれ」、「足の裏踏んでくれ」という会話しかありませんでした。子供との接し方がわからなかったのかもしれません。

小学校ころ、「ちょっと、ついて来い」、「手伝ってくれ」と父に言われて、お客さんの現場によく行ってました。切りくずを拾ったり、片づけを手伝ったりしていました。

現場でお客さんと会うと、父はニコニコ話しているのです。お客さんも「お父さん、まじめで熱心で、安心して任せられる」と言うのです。家と仕事場の顔が違うなぁと思いながら、「やっぱり、すごいなぁ」と思いました。

「お父さん、信頼されてるなぁ」と感じていました。

そして、現場に行くとき、父は、必ずお小遣いをくれたのです。口には出しませんでしたが、父は、将来私と一緒に仕事ができればなぁと思っていたのかも知れません。

ある日、父に現場の切りくずの片づけに連れていかれた時のことです。わたしが一生懸命片づけていたら、「あんた、えらかねぇ」とお客さんからお小遣いをもらったのです。1,000円がティッシュで包んでありました。自分がしたことで、人に喜んでもらえたということが、なにより嬉しかったです。わたしの中で、その後も記憶に残っています。

ちょっとついてこい

ちょっとついてこい

 

「帰って来んね」

母は、6人兄姉の5番目です。父と同じ大川市の出身。祖母の話では、「人手が必要だったんで、お見合いをした」と。父の実家は、農業をやっていたので、人手が足りなくて、若い時にお見合いをして結婚したのです。

母は、平日は、家具の資材を作る工場で、フルタイムで仕事をしていました。知り合いに「手伝ってくれない?」と頼まれて工場で働いていました。一方、休みの日は、父と一緒に農業。さらに、3人の子どもを育てる。

母は、じっとしてるタイプではないので、働くことが好きでした。

わたしは、小さいころ、落ち着きがなく、口も悪かったです。そのため、父によく怒られて、家を追い出されていました。その度に、カッとなって、友達のところに行くか、小学校の体育館の道具置き場に行って過ごしてました。

母は、そんなわたしの行動を知っていました。仲の良い先輩のところにいなかったら、体育館のところにいると。

「帰って来んね」
母は半分怒りながらも、いつも探しに来てくれました。

母は、毎朝早く起きて弁当を作ってくれました。友達の弁当は、殺風景なものでした。母の作る弁当は、色合いもきいれいで、品数も多かったです。自慢の弁当でした。

小学校4年から、学校のサッカーチームに入りました。5、6年のとき、周りが見えなくて、自分一人でプレーしてしまう友達がいました。

わたしは、チームプレーをせず、ワンマンプレーをするのが嫌いで、その友達によく注意していました。

「ドリブルせんで、パスすればよかとに!」

と、ついついケンカ口調で言ってしまいました。試合が終わると、友達は、「おまえ、なんかその言い方は!むかつくやん」とケンカになってしまいました。

わたしが何回言っても、友達は変わりません。ケンカするのも良くないので、と「こいつに言っても、しょうがない...」と気持ちを抑えるようになりました。

そのうちに、やる気が無くなって、練習に行かなくなりました。しまいに、レギュラーでなくなり、イライラだけが募りました。

わたしは、姉二人に囲まれて育ったので、男の兄弟にあこがれていました。そのため、6歳上の従兄と遊ぶのが、楽しかったです。従兄のところに泊まりに行くのが楽しみでした。

従兄は、頭も良くて、スポーツも万能でした。バドミントンをしたり、勉強を教えてもらったりしました。電車を見に行ったり、いろんなところに連れて行ってくれました。自分の弟のように、かわいがってくれました。

従兄がわたしの家に泊まりに来てくれると、帰りの日は帰る時間が気になって、「何時ころ帰るとね?」と聞いてましたね。それだけなついていました。

それまでのわたしは、自己中心的で、自分の思う通りにならないといやでした。なんか面白くないことがあると、みんなで遊んでいても、なにも言わず一人で帰ってしまう、そんな子供でした。

ところが、従兄のおかげで、小学校6年くらいから、世話好きになりました。人間性が変わり、穏やかな感じになったのです。

従妹

従妹

 

「今うちの一押しですよ」

母は、口うるさく言うこともなく、自由に育ててくれました。高校のとき、アルバイトで帰りが夜10時くらい遅くなっても、母だけは起きている。わたしが帰ってくるのを確認してから、母は寝ていました。

黙って見守ってくれていたのです。

母は、わたしの性格を理解して、見守ってくれました。細かくいうとわたしが反発したり、嫌な態度をするのを、わかっていたんですね。よく人を見ている母でした。

大川市は、家具の有名な街。そのため、わたしは、家具のデザインやインテリアコーディネーターが好きでした。そういう仕事につきたくて、工業高校を選びました。わたしの決めたことに、母は反対することもなく、受け入れてくれました。父は、進学について、なにも言いませんでした。

高校では、インテリア科で、家具やデザインを学びました。建築よりはデザインが好きでした。

アルバイトで、親父に現場に連れてってもらった時のことです。お客さんが「この部屋に収納棚を付けて欲しいのですが」と言われました。

すると、父は、「そこになにを収納するのですか?」と質問しました。お客さんは「なにもないです(笑)」と答えたので、「収納がなければ、この部屋は 広く使えますよ」と言いました。

父は、お客さんの要望を聞いても、100パーセント作りません。お客さんが後で後悔しないように、この部屋には必要ないですよとか、お客さんの住みやすさを考えて進言していました。

自分のこだわりを押し付けもせず、お客さんの言いなりでもなく、住む人が住 みやすいように提案している姿を感心して見ていました。

わたしは、高校では、部活よりアルバイトに専念しました。大きなスーパーや弁当屋さん、家具の材料を塗装する会社などを自分で見つけてきました。

わたしは、特に、人に興味がありました。お客さんに触れたかったのです。スーパーでは、精肉店に配属されて、店頭で試食販売などもしました。お客さんと対面できて、楽しかったです。

ただ、販売ノルマがあったのです。上司から「これだけ売らなかったら、商品を中に引っ込めるからな」と言われていました。

何もわからないながらに、お店の人に言われたことをそのまま言ってました。「これおいしいみたいですよ」、「今人気があって、一押しですよ」などと、笑顔で言ってました。

お客さんに「どうですか?」と声をかけて、興味のある人に商品の説明をしてました。笑顔で一生懸命対応していました。「高校生なのに頑張ってるねぇ」という風に一生懸命さが伝わって、買ってもらっていました。

わたし自身、お客さんに買ってもらって嬉しかったし、ありがたい気持ちになりました。なにより、お客さんと関わるのが楽しかったのです。

高校2年から3年までは、別のスーパーの青果店のアルバイトをしていました。そこでは、バイトリーダーをしてました。 販売価格の設定や売り方などを任せられていました。ある時、わたしのアイディアで、傷んだ果物をカットし詰め合わせパックにして、少し安く売りました。このままではもったいないなと思ったのです。それが、思いのほか、売れてました。大人気でした。

高校の友人

 

「おまえがしたかことせんかい」

高校を卒業後、父の仕事を継ごうという気持ちは、全くありませんでした。就職したのは、運送会社。本社は、久留米ですが、勤務先は神奈川でした。 神奈川に向かうとき、父は、「なにかあったら、いつでも戻って来い」と言ってくれました。

その運送会社は、月100時間以上残業がありました。また、仕事がなくて早く終わったときも、定時まで残っていなければなりませんでした。そのことを会社の上司に言いましたが、取り合ってくれない。

「なんだよ、人の言うことを無視して」

そんな会社の理不尽さや効率の悪い仕事のやり方が嫌になって、半年で辞めました。

最初の会社を辞めて、地元大川に戻ってきました。オーダーメイドで家具をオ作る会社に入りました。自分で設計して、1から家具を作るのは楽しかったです。 でも、工場の人以外、人と触れ合うことがありません。作ったものを使ってくれる人が見えない、感想も聞けないので、なにか物足りない。

「なんか、自分に合っていないなぁ...」

そんなことで、その会社も半年で辞めてしまいました。

その後、家で就職雑誌を見たり、職安に行って仕事を探していました。「どんなのが自分に向いてるのか?」そう自問自答しながら。

3ケ月ほど職を探していたとき、父が「お前、そんなぶらぶらしとるなら、手伝わんか」と言ったのです。最初、次が見つかるまでと思っていたので、「やることないけん、よかよ」と。それで、父の仕事を手伝い始めるようになったのです。

最初、父と一緒に現場に行くのが嫌だったのです。わたしの変なプライドもあり、連れられて行ってる感があったのです。連れられて行って、「あれしろこれしろ」言われて作業しているだけ。わからないことは職人さんに聞いて覚えていました。自分でなにかを作ることは楽しかったです。

跡を継ぎたいと思い始めたのは、21歳くらいのときです。小中高と現場に行って仕事をして楽しかったことが、染み付いていたのです。さらに、お客さんから「ようがんばってるけん」、「諸富さんの息子さんね」と言われることがうれしかったのです。

21歳のときに、父に「そのまま継ぐから」と言いました。父は「ああ、そうか。おまえがしたかことせんか」というだけでした。特に、気持ちは口に出してなかったです。

父とはよく仕事の意見の食い違いで、言い合いをしました。父の感覚とわたしの感覚が違うので、ぶつかり合うことはよくありました。父は昔の大工の感覚。わたしは「このお客さんには洋風のイメージいい」という感覚。

わたしは自分の考えを押し通そうとしました。ところが、「ここは、こんな風にせなあかん!」と言って、父が社長なので父の意見が通りました。歯がゆかったです。自分の感覚の方があってると思うことが多々あったんです。「自分の思い通りにいかいない...」という悔しさがありました。

お客さんから「ようがんばってるけん」、「諸富さんの息子さんね」と言われることがうれしかったのです。

 

なぜ、わたしは【親切】を使命と掲げているのか?

父が、59歳のときに、脳出血で倒れました。そのまま、父は引退し、わたしが社長になりました。34歳のときです。

その時は、半分はプレッシャー、半分は嬉しい、という気持ちでした。わたしなりの理想がありましたから。ただ、プレッシャーは、家族もいたし、職人さんもいたので、本当に自分が経営できるのかという不安はありました。

わたしが社長になってすぐに、お客さんと接していて、なかなか自分のアドバイスを聞いてもらえなかったことがありました。

年配のお客さんで、木工業界に関わっている知識のある方でした。

家具の素材について、「あんたは勉強不足だからわからないだろうけど。これは私が言ってるのとは違う等級だ」と言われてしまいました。

どう見てもわたしが思っている等級なんです。そこを強くこだわって言うことができなかったのです。これ以上言うとケンカになる雰囲気でした。

「すいません、私の勉強不足で」と折れました。「違う材料を持ってきます」と言いました。商談が終わった後、悔しくて、悔しくて...

「なんで、間違っていないおれが、折れなければならないんだ」

今までであったら、父がいたときは、自分の意見を通していました。お客さんの間違いを「間違っています」と指摘し続けて、うまくいかないことがありました。お客さんも正しいと思っているから。

父に対する甘えがあったのかもしれません。責任は父がとってくれるからと、自分の意見を通していたのです。

今は、もう父は社長ではない。自分が全面に出て、すべての責任を自分が負う。そう思ったとき、なにか冷静になれたのです。

「お客さんも間違うこと、あるよな」

そう思ったとき、自分のことを笑ってしまいました。

そうか、

自分の思うようにならないと、イライラしたり、
自分の意見が通らないと、悔しいと思ったり、
相手が間違っていると、間違っていると指摘したり、

まったく相手への親切さがなかった。
まったく相手の気持ちへの親切さが欠けていた。

わたしは、恥ずかしくなりました。

その瞬間、それまでの過去のことが一気に見えてきたのです。

小さいときに、自分の思うようにならないと、相手のせいにして言いたいことを言ったとき、少しでも親切さがあったら...

小学6年のとき、ワンマンプレーをする友達に、ケンカ口調で言うのではなく、少しでも相手の気持ちへの親切さがあったら...

父と仕事で意見の食い違いがぶつかっていたとき、父の考えを聞くという親切さがあったら...

そうなんです。わたしには、人に対する親切さが、欠けていたのです。
この体験から、わたしは、【親切】を使命と掲げることにしました。

お客様といっしょ

お客様といっしょ

 
 

【親切】を使命に掲げることで、年配のお客さんには、お客さんが話された材料を持って行きました。なんの不平不満もなく。

すると、家が完成した後、お客さんから「食事を作るので、来てください」と言っていただいたのです。

それ以来、お客さんが間違っていることがあっても、「いつか自分の間違いに気づいてくれるだろう」と気遣うようになりました。何とかお客さんの気持ちを理解して、わかってもらえる方法はないか考えるようになりました。

わたしが社長になって、新築を頼んでくれた第一号は、6歳上の従兄でした。
「家を建てるから作ってくれ」と言われました。自分がどういった仕事をするか知らないのに、頼んでくれたことが、うれしかったです。

従兄には小さい時はよく面倒を見てもらいましたが、大人になってからは、盆、正月に会うくらいでした。それが、「今どんな仕事してる?」と気にかけてくれて、新築を頼んでくれたのです。さらに、そのあと3軒紹介してくれたのです。

それから、仕事に自信とやる気がわいてきました。仕事も少しずつ、回るようになってきました。わたしなりの家作りの考え方を形にしてみようと思い、ホームページも作りました。39歳のときです。

それから、おかげさまで、安定して仕事が来るようになってきました。

あるとき、ホームページを作ったころのお客さんF夫妻に、なぜ、わたしに家を頼んだのか、思い切って聞いてみました。

「諸富さんやったら、自分たちの意見も言えるし、アドバイスも的確だし、 信頼できるから、決めました」

「いろんなところに気づかいがある。周りに目配りする。業者さんにしろお客さんに対して心遣いされますね」

「主人が独立するって決めてからも、諸富さんがすごいアドバイスしてくれて、今があることが、一番良かったですね」

このようにF夫妻に言われたとき、心からこの仕事をやっていてよかったと思いました。F夫妻と長いお付き合いできていることが、本当にしあわせだと感じました。

そして、F夫妻からは、このようによろこんでいただきました。

「みんな居心地がいいって言ってくれます。叔母たちも、里に行かずここに泊まって(笑)」

「お母さんの兄弟や友達が集まったり、人が来るようなおうちにしたかったんですけど、実際いっぱい来てくれてうれしい(笑)」

最近、新築工事が終わった30代のご夫婦にも話を聞く機会がありました。

「最初はイメージがあんまりわかなくて。打合せの中で、ちょいちょい相談して変えてもらったりとか、えらい良くしてもらいました(笑)」

「子どもたちが、家の中で、元気で遊ぶのを見るのが、とても楽しいですね(笑)」

「今回、『いい人がにじみ出ている』と思って、諸富さんに頼んで、大正解だったね(笑)」

このように、若いご夫婦にもよろこんでいただき、とてもうれしくなりました。

「こちらの要望とか話を聞いてくれてる大工さんがいたらなぁ...」と思っている方へ

「長年付き合えそうな大工さん、年数経ってもいろいろ頼みやすい大工さんがいたらなぁ...」

「こちらの要望を嫌な顔をしないで聞いてくれる大工さんがいたらなぁ...」

「こちらの話を聞いてくれるし、適切なアドバイスもしてくれる大工さんがいたらなぁ...」

このような方に、この物語を読んでもらいたいと思っています。そして、「すごく親切に話を聞いてもらえそうだ」と感じていただけたら、とてもうれしいです。

そのためにも、【親切】を使命に掲げて行動していきます。

最後に、
親父とおふくろへ

親父は不器用だったんだなぁ
おれもそんなところ似たのかなぁ(笑)
でも親父の一生懸命を受け継いだこと誇りに思っています。

おふくろが
おれのことを理解して見守ってくれていたから
ここまで来れたなぁとしみじみ思います。
感謝しても感謝しきれません。
ありがとう。

これからもまだまだいたらないおれだけど
見守っていてください。

 
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