社長あいさつ

はじめに

「真面目で、いい人がにじみ出ている(笑)」と言われる、細かなところまで気遣いをする工務店、
株式会社 諸富建設の諸富賢一(もろどみ けんいち)です。
「みんなが集まるような家になって、うれしい!」と言われるような、家族が"笑顔"になることが、わたしのよろこびです。そのために、「いろんなことを頼みやすい」と言われるように、心がけております。
わたしは「親切」を使命と掲げています。
その理由は、わたしの生い立ちと深く関係しております。
よろしければ、わたしの使命についてご興味もっていただけたら幸いです。

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【現在に至るきっかけの記憶】
わたしの父は、工務店の仕事をしながら、兼業で農家もしていました。
平日は現場、土日は田んぼ。休みなく働いていました。
父は、どちらかというと、すべて自分中心。家に居るときも父は、一人でいる時間が好きでした。テレビを見たり、晩酌したり。
口数が少なく、自ら話すタイプではありません。
そのため、小さい頃わたしは父と一緒に遊んだ記憶がほとんどありません。
「背中に乗ってくれ」「肩をたたいてくれ」「足の裏、踏んでくれ」という会話しかありませんでした。

小学生のころは「ちょっとついて来い」「手伝ってくれ」と父に言われて、お客様の現場によく行ってました。切りくずを拾ったり、片づけを手伝ったり。
現場でお客様と会うと、父はニコニコ話しています。
お客様も「お父さん、まじめで熱心で、安心して任せられる」と言うのです。家と仕事場の顔が違うなぁと思いながら、「やっぱり、すごいなぁ」「信頼されてるなぁ」と感じていました。

ある日、父に現場の片付けに連れていかれた時のことです。
「あんた、えらかねぇ」とお客さんからお小遣いをいただきました。1,000円がティッシュで包んでありました。
実は仕事の手伝いをする際、父は必ず私にお小遣いをくれました。ですが、自分がしたことで相手に喜んでもらえた、ということが分かったこの時は、わたしの中で、とても記憶に残っています。
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【見守られた行動パターン】
わたしの母は、平日は家具の資材をつくる工場で、フルタイムで仕事をしていました。
一方、休みの日は父と一緒に農業。
さらに、わたし達3人の子どもを育てる。パワフルな母でした。

わたしは、小さいころ落ち着きがなく口も悪かったため、父によく叱られて家を追い出されていました。その度、カッとなって友達のところに行くか、小学校の体育館の道具置き場に行って過ごしていました。
「帰って来んね」
母は、わたしの行動を把握していたので、友達のところにいなかったら、体育館へ迎えにきてくれていました。半分は怒っていましたが。。。

また、母は毎朝、早起きをして弁当を作ってくれました。友達の弁当は殺風景なものも多い中、母の作る弁当は色合いも綺麗で、品数も多く自慢の弁当でした。
わたしの高校生時代はアルバイトで、いつも帰宅は夜10頃。翌日がどんなに早くても、わたしが帰宅するまで起きてまっていくれていました。
何をしても黙って見守り、わたしの自由と意志を尊重してくれる、母でした。

【ひとりよがりの性格が変わりはじめる】
わたしは、姉妹に囲まれて育ったので、男の兄弟にあこがれていました。
そのため、6歳上の従兄と遊ぶのが楽く、従兄にとても懐いていました。
従兄は、頭も良くてスポーツも万能。バドミントンをしたり、勉強を教えてもらったりしました。電車を見に行ったり、いろんなところに連れて行ってくれました。わたしを自分の弟のように、可愛がってくれました。

幼少期のわたしは、自己中心的で、自分の思う通りにならないとすぐに腹をかくタイプ。
所属していたサッカーチームで、ワンマンプレーをする友人に注意すると、口が悪いのでケンカばかり。終いには練習にも行かなくなり、レギュラーから外される始末。

ところが、そんな自己中心的だったわたしでしたが、憧れの従兄のおかげで小学校6年生くらいから、お世話好きに。
人間性が変わり、穏やかな感じになったと言われるようになりました。
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~高校時代~【仕事の楽しさを知ったアルバイト、そして進路】
大川市は、家具が有名な街です。
その影響か、わたしは家具のデザインやインテリアコーディネートに興味がありました。
そういう仕事につきたくて、工業高校へ進学。インテリア科で家具やデザインを学びました。建築よりはデザインが好きでした。

高校生の時はアルバイトに専念しました。大きなスーパーや弁当屋さん、家具の材料を塗装する会社などを自分で見つけてきては、色んなアルバイトをしました。
わたしは、特に'人'に興味があり、お客様と接する仕事が好きだと気付いたのは、今思えばこの時期のアルバイト経験からかもしれません。
スーパーのバイトでも、ノルマがあった販売を任されていました。
何もわからないながらに、「これおいしいみたいですよ」「今人気があって一押しですよ」などと、笑顔だけは心がけて一生懸命に販売。
そうしていると、「高校生なのに頑張ってるねぇ」とお客様に一生懸命さが伝わって買ってもらった経験は、もちろん嬉しかったですし、ありがたい気持ちになりました。
それで、お客様と接する事もどんどん楽しくなっていきました。

高校2年生から3年生までは、別のスーパーの青果店のアルバイトをして、バイトリーダーを経験。販売価格の設定や売り方などを任せられるほどに。
ある時、傷んだ果物をカットし詰め合わせパックにして、少し安く売りました。このままではもったいないなと思ったところからのアイデア。それが、思いのほか売れる大人気商品に。自分のアイデアが売上に貢献する楽しさも知りました。
高校時代でも、父の仕事の手伝いをしていました。
とある日のこと、お客様が「この部屋に収納棚を付けて欲しい」と言われました。
すると、父は「そこになにを収納するのですか?」と質問。
お客様は「なにもないです(笑)」という答えに父は「収納がなければ、この部屋は 広く使えますよ」と。
父は、お客様の要望であれば、何でもするというタイプではありませんでした。
お客様が後に後悔しないよう、住みやすさを考えて進言していました。

自分のこだわりを押し付けもせず、お客様の言いなりでもなく、住む人が住みやすいように提案している姿を「プロってこんな感じなのだな」と子どもながらに感心したのを覚えています。

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~社会人へ~【父のあとは継がずに、別業界へ。しかし・・・】
高校を卒業後、父の仕事を継ごうという気持ちは、全くありませんでした。
就職したのは、運送会社。勤務先は、神奈川でした。
神奈川に向かうとき、父は「なにかあったら、いつでも戻って来い」と言ってくれました。

いざ、働いてみると月100時間以上の残業。
早く終わっても、定時まで残っていなければなりませんでした。
非効率で理不尽な会社体制について当時の上司に話をしても、取り合ってくれません。
「なんだよ、人の言うことを無視して」
納得いかない仕事で、半年で辞めてしまいました。

わたしは地元大川に戻り、オーダーメイドで家具をつくる会社に入りました。
自分で設計して、1から家具をつくるのはとても楽しかったです。
でも、工場の人以外人と触れ合うことがありません。つくったものを使ってくれる人が見えない、感想も聞けないので、なにか物足りない。。。
「なんか、自分に合っていないなぁ...」
そんなことで、その会社も半年で辞めてしまいました。

その後、家で就職雑誌を見たり、職業安定所に行って仕事を探していました。「どんなのが自分に向いてるのか?」そう自問自答しながら。
3ヵ月ほど職を探していたとき、父が「お前、そげんぶらぶらしとるなら、手伝わんか」とわたしに声をかけてきました。
最初、次が見つかるまでと思っていたので、「やることないけん、よかよ」となんとなく返事をしました。

しかし、最初のうちは父と一緒に現場に行くのが嫌でした。
わたしの変なプライドもあり、連れられて行ってる感があったからです。現場では、「あれしろ、これしろ」言われて作業しているだけ。分からないことは、職人さんに聞いて覚えていました。しかし、やはり自分で何かをつくることは楽しいと再認識しました。

あとを継ぎたい、と思い始めたのは、21歳くらいのときです。小中高と現場に行って仕事をして楽しかったことが、染み付いていたのかもしれません。
さらに、お客様から「よう頑張ってるね」、「諸富さんの息子さんね」と声をかけられることが嬉しかったです。
21歳のときに、父に「このまま継ぐから」と言いました。
父は「ああ、そうか。おまえがしたかことせんか」というだけでした。
そこからは、父とはよく仕事の意見の食い違いで、言い合いをしました。父の感覚とわたしの感覚が違うので、ぶつかり合うことはよくありました。
父は昔の大工の感覚。わたしは「このお客様には洋風のイメージが合うのに!」という感覚。
わたしは自分の考えを押し通そうとしました。ところが、「ここは、こんな風にせないかん!」と言うと、父が社長なので父の意見が通ります。歯がゆく、悔しく思う事は、よくありました。

~諸富建設を継承~ 【父が倒れ、社長を継承。そして、自分の使命に気付く】
父が、59歳のときに、脳出血で倒れました。そのまま父は大工を引退し、わたしが社長になりました。34歳のときです。
その時、半分はプレッシャー、半分は嬉しい。というのが正直な気持ちでした。
わたしなりの理想がありましたから。
ただ、プレッシャーは、職人さんもいたので、本当に自分が経営できるのか?という不安はありました。

わたしが社長になってすぐのころ、お客様と接していて、なかなか自分のアドバイスを聞いてもらえなかったことがありました。
年配のお客様で、木工業界に関わっている知識のある方でした。
家具の素材について、「あんたは勉強不足だからわからないだろうけど。これは私が言ってるのとは違う等級だ」と言われてしまいました。
どう見ても、わたしが思っている等級です。しかし、立場的にもそこを強くこだわって言うことができませんでした。
これ以上言うとケンカになってしまう勢いだったので「すいません、私の勉強不足で」と折れました。「違う材料を持ってきます」と言いました。
商談が終わった後、悔しくて、悔しくて...
「なんで、間違っていないおれが、折れなければならないんだ」

これまで父がいた時は、わたしは自分の意見を通していました。お客様の間違いを「間違っています」と指摘し続けて、うまくいかないことがありました。お客様も正しいと思っているから。
父に対する甘えがあったのかもしれません。責任は父がとってくれるからと、自分の意見を通していたのです。
今は、もう父は社長ではない。自分が全面に出て、すべての責任を自分が負う。そう思ったとき、なにか冷静になれたのです。
「お客様も間違うこと、あるよな」「自分の常識とお客様の常識の違うこともあるよな」
そう思ったとき、自分のことを笑ってしまいました。

そうか、自分の思うようにならないとイライラしたり、自分の意見が通らないと、悔しいと思ったり、相手が間違っていると、間違っていると指摘したり、全く相手への親切さがなかった。相手の気持ちに寄り添う事が欠けていたのか・・・

わたしは、恥ずかしくなりました。その瞬間、それまでの過去のことが一気に見えた気がしました。
小さいときに、自分の思うようにならないと、相手のせいにして言いたいことを言ったとき、少しでも思いやりがあったら...
小学6年生のとき、ワンマンプレーをする友達にケンカ口調で言うのではなく、少しでも相手の気持ちへ寄り添う親切さがあったら...
父と仕事で意見の食い違いがぶつかっていたとき、父の考えを聞くという謙虚さがあったら...
わたしには、人に対する「親切さ」が欠けていたのです。
この体験から、わたしは、【親切】を使命と掲げることにしました。

~社長継承後~【お客様に寄り添う大切さ】
自分の使命に気付いてから、仕事と向き合う態度も変わりました。
「あなたは勉強不足だ」と仰られたお客様は、家が完成した後、「食事を作るので、来てください」と言っていただけるような間柄になっていました。
それ以来、何でも正解が良いとするのではなく、お客様に寄り添うこということは?を考え、行動するようになりました。

わたしが社長になって、新築を頼んでくれた第一号は、昔から憧れていた従兄でした。
自分がどういった仕事をするか知らないのに、わたしという人間性を信頼して依頼してくれたことに、とても感謝しています。

それから、仕事に自信とやる気がわいてきました。実績が自信となり、仕事も少しずつ回るようになってきました。
わたしなりの家づくりの考え方を形にしてみようと思い、ホームページも作りました。
39歳のときです。
それから、おかげさまで、安定して仕事をいただけるようになってきました。

ある時、初めてホームページを作ったころのお客様F夫妻に、なぜわたしに家づくりを頼んだのか?思い切って聞いてみました。

「諸富さんやったら自分たちの意見も言えるし、アドバイスも的確だし、信頼できるから決めました」
「いろんなところに気づかいがある。周りに目配りする。業者さんにもお客様にも同じように心遣いされてますよね」
「主人が独立するって決めてからも、諸富さんが沢山アドバイスしてくれて、今があることが一番良かった」

心からこの仕事をやっていてよかったと思いました。F夫妻と長いお付き合いが現在でもできていることが、本当に幸せです。

またF夫妻からは、このように喜んでいただきました。
「みんな居心地がいいって言ってくれます。叔母たちも、里に行かずここに泊まって行くんです(笑)」
「お母さんの兄弟や友達が集まったり、人が沢山来れるようなお家にしたかったんですけど、実際いっぱい来てくれるからうれしいです(笑)」

他にも、新築工事をさせていただいた30代のご夫婦にもお話を聞く機会がありました。
「最初はイメージがあんまりわかなくて。打合せの中で、ちょいちょい相談して変えてもらったりとか、えらい良くしてもらいました(笑)」
「子どもたちが、家の中で元気で遊ぶのを見るのが、とても楽しいですね!!」
「今回、『いい人がにじみ出ている』と思って、諸富さんに頼んで、大正解だったね(笑)」

このように、若いご夫婦にも喜んでいただき、とても嬉しくなりました。

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~これからの諸富建設~
【はじめまして、からその先もずっと】
「様々な要望や話をちゃんと受け止めて聞いてくれてる大工さんがいたらなぁ...」
「長年付き合えそうな大工さん、建築後も頼みやすい大工さんがいたらなぁ...」
「要望を嫌な顔をしないで聞いてくれる大工さんがいたらなぁ...」
「適切なアドバイスもしてくれる大工さんがいたらなぁ...」
このような方に、この物語を読んでもらいたいと思っています。
そして、「すごく親切に話を聞いてもらえそうだ」と感じていただけたら、とても嬉しいです。
そのためにも、【親切】を使命に掲げて行動していきます。

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